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水夏希は千葉市出身です。地元の公演でいつもより張り切っていたのでしょうか。 本編の場面も曲も使わず新しい内容といわれますが、まったく新しいのは最初と最後の修道院 の場面だけです。そのほかは本編をアレンジして作られています。 本編の印象が脳裏にあるので、どうしても白羽ゆりがマリー・アントワネットにダブります。
スウェーデンに帰るソフィアをジェローデルが尋ねる場面はマリー・アントワネットとフェルゼン の別れの場面に重なります。 組長・飛鳥裕のマロングラッセはコミカルな演技で熱演でしたが、どうしてジャルジェ家の使 用人なのにジェローデルのカバン持ちでスウェーデンまで行くのでしょうか? 白羽ゆりのロケット・ガールは美しかったです。 全国ツアーは営業の一環でもあるのでしょう。 今回の「ジェローデル編」には賛否がいろいろあるようです。上演時間の制約もあり、オスカ ルやフェルゼンは中途半端に描かれています。しかし、彩吹真央は歌のうまさで、音月桂は舞踏会 や国民議会の場面で、それぞれ存在をアピールしていたと私は思います。 演劇のジャンルに「不条理劇」というのがあります。端的に言えば登場人物の会話や行動には 何の意味もない、ストーリーも因果関係が明確でない、という舞台です。観客も、どう理解するか (できるか)は別として、それを承知で観ています。もちろん、そのような演出を通じて表現しよ うとする作者の意図はあるとしても、抽象画を見るように観客には分かりにくいのです。 「ジェローデル編」に対する辛口の意見の多くは、植田脚本のこの「不条理性」によるものと 思います。これまでの「ベルばら」を熟知している観客は、自然な反応として登場人物の言動に本 編との論理的整合性を求めようとします。このような態度で今回の「ジェローデル編」を観ると理 解しにくい場面が多く出てきます。植田先生が脚本に意図的に「不条理性」を持ち込んだとは思わ ないのですが、プロの作家ですので必ずしも論理的整合性にこだわらずに書いた、と考えても不思 議ではありません。観客には割り切って観てほしい、というメッセージが込められているように思 います。 「ジェローデル編」は今回は“外伝”ですが、もう少し観客の心理的抵抗を和らげるように分 かりやすくなれば、“新しいバージョン”の「ベルばら」作品になる可能性があると私は考えてい ます。5つの組がそれぞれのバージョンの「ベルばら」を演目として持つ。オスカルの最期、マリ ーアントワネットの最期、そして今回はジェローデルの最期、いずれも主人公の死で幕が下ります 。それではアランもベルナールも死ぬのでしょうか?フェルゼンも加われば6バージョンになって しまいますが!そして毎年一つの組が上演して、5年で1巡すれば組子の顔ぶれも相当変わってま た上演が繰り返されていく。「ベルばら」ファンの一人としてタカラヅカ100周年に向けて是非 実現してほしいと願っています。 |