4月26日(火)19:00公演を新国立劇場小劇場で観ました。
サミュエル・ベケット作、不条理劇の代表的作品です。
1953年にパリで初演されたときは悪評だったようです。
今では世界演劇史に燦然と輝く傑作と評価されています。
日本での初演は1960年の文学座、以来さまざまな再演が続いています。
今回は仏文学者・詩人の岩切正一郎の翻訳、森新太郎の演出です。
不条理劇ですので、分かりやすいのか、分かりにくいのか、とらえどころのないストーリーです。
新国立劇場のガイドブックに載っているあらすじをそのまま引用します。
「田舎道、一本の木がある。夕方。
エストラゴン(石倉三郎)が道端に座っている。
靴を脱ごうとするのだが、なかなか脱げない。
そこへヴラジミール(橋爪功)がやって来て他愛のない会話が始まる。
やがて、エストラゴンが立ち去ろうとするのをヴラジミールが留める。
エストラゴン:どうして。
ヴラジミール:ゴドーを待っている。
エストラゴン:そうだね。
2人はゴドーに会ったことはなく、いつまでも待ち続ける。
そこにポッゾ(山野史人)とラッキー(石井愃一)がやって来る。
やがてラッキーは哲学的な演説を始める。
2人が去った後、少年(柄本時生)が現れゴドーの伝言を伝える。
今夜は来られないが、明日は必ず来ると。
そして翌日、同じ時刻、同じ場所。
エストラゴンとヴラジミールはまたゴドーを待ち続ける。」
舞台は小劇場の中心縦方向に作られています。
木が1本あるだけのがらんとした田舎の一本道です。
この舞台の左右と2階の周囲が客席になっています。
みすぼらしい身なりのホームレスのような2人が、延々ととりとめのない会話を続けます。
その内容には脈絡もなければ因果関係も不明確です。
翌日という設定も、枯れ木に葉が茂り、再びやって来たポッゾは盲目になりラッキーは聾唖者になっていて、翌日というには矛盾しています。
時間の流れも不条理なのです。
音楽はまったくありません。
喜劇的でもあり悲劇的でもある、息の合った2人のやりとりがみどころ?のようです。
大震災後の今、2人は被災者にも重なって見えます。
果たして救いの神(かどうかも分からない)ゴドーはいつやって来るのでしょうか?
1日の最後に現れる、天井に浮かぶ球形の月が実にリアルでした。
何とも言えない不思議な面白さの舞台です。
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