ケープアカハーテビーストの黄昏 ブローダーハウスユニット 平成21年4月24日(金)19:30 テルプシコール

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長い題ですが、劇団名もブローダーハウスユニット(BHU)と長い名前です。
劇団代表の説明では「絶滅動物三部作」の第一弾の舞台です。
ケープアカハーテビーストは、南アフリカのケープ地方に生息していたウシ科の一種で、70年ほど前に絶滅したようです。
「絶滅の危機に瀕した文化」である「オヤジギャグ」を「守る」、ある県庁の職場が舞台です。

新たに配属された係員の若者は「オヤジギャグ」とそれを「守る」ことがなかなか理解できません。
一方、若者のフィアンセの父親はNPO「オヤジギャグ撲滅委員会」の代表です。
「オヤジギャグ」の博士が登場したり、人間に扮した(ウルトラマンをもじった)「ウシトラマン」と「トラウマン」が登場します。
セリフの中に多くの「オヤジギャグ」が出てきます。
日本のどこかに怪獣が現れると課長の携帯電話に連絡が来て、課長がご当地にふさわしい怪獣のネーミングをして、「トラウマン」が怪獣をやっつけます。
仕事とフィアンセの板挟みになった若者の恋の行方はどうなるのでしょうか?
そんなストーリーです。

私の好みの違いで仕方がないのですが、何か物足りない舞台でした。
理由の一つは、たくさん出てくるギャグにあまり共感できないこと、 もう一つは役者の演技が見えないことです。

「ギャグ」にも「言葉によるギャグ」と「動きによるギャグ」があります。
「オヤジギャグ」は前者です。言葉だけで動きはありません。
言葉だけでもその内容に観客が共感できるかどうかが重要です。
そうでなければ「ギャグ」でなく単なる「ダジャレ」になってしまいます。
「横井庄一」、「じゃじゃまる・ぴっころ・ぽろり」などもう一世代前の話題です。
団塊の世代の私には分かりますが、今の若い人にはどこがギャグなのか理解(共感)できるのでしょうか?
「横井庄一」の発見は当時は大きな共感がありました。しかし今の話題ではありません。
そのほか「九九」を使ったギャグなど、古典的なギャグがほとんどです。
このため客席の笑いを誘っていても、どこか「静かな笑い」です。
金融危機下の大不況やいろんな事件が起きている今の世相を取り上げたオヤジギャグであれば観客としてもっと「共感できる笑い」になると思うのですが。

また、役者はギャグを含めセリフを“話す”ことが中心で、演技らしい演技がありません。
舞台を移動していますが、それはあくまで「移動」であって「演技」ではありません。
また役者の表情に喜怒哀楽がほとんどありません。
板挟みになった若者の苦悩も「演技」にはなっていません。
オヤジギャグを守ろうとする県庁と撲滅しようとするNPOとの対立も“あっさり”としています。
怪獣との戦いも「トラウマン」が脚立に上ってビームを発するポーズだけです。
これらは演技としてもっと“熱い”、“苦しい”、“激しい”演出がされないのはどうしてでしょうか?

ノジリ係長(古関千華子)がギャグを話すときの明るい笑顔が唯一の表情といってもいいでしょう。
また、ゾエア(樹元オリエ)は声優でもあるからでしょうかセリフ自体に表情を感じました。

「言葉によるギャグ」をテーマにした舞台としては的確に演出されているのかもしれません。 しかし、セリフ、動き、喜怒哀楽の表情などから観客が肌で感じる役者の「演技」が見えません。
1時間15分ほどですが、ずっと目を閉じて耳だけで聞いていても印象は変わらないと思えるような舞台でした。
ラジオドラマというと言い過ぎでしょうか?


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